息子の卒園式
息子の幼稚園の、卒園式に行って来ました。
私が40を過ぎた頃に出来た息子なのですが、いつの間にやら卒園式です…。
舌っ足らずな言葉で話していたのが、まるで昨日のこと様ですが、そうなんです、もう卒園式なんです…。
息子の通った幼稚園は、私が今から40数年前に通った幼稚園なんです。
とても古いカトリック系の幼稚園なのですが、昨今の子供不足も相まって、非常にこぢんまりとした感じなってしまいました。
その代わり、私の頃は2年幼育で、年小・年長しかなかったのですが、息子の頃は、プレ幼育も含めて4年幼育。
なので、プレ・年小・年中・年長と別れています。
私の世代は第二次ベビーブームの頂点だった頃なので、比べるまでもありませんが、息子の学年は、私の頃の1クラスにも満たない人数です。
そんなわけで、この日はめでたい卒園式。
コロナ禍の影響で、両親共に参加出来るかは分からなかったのですが、関係各位の尽力もあって、両親の参加が許可されました。
滞りなく進む式に、自分の記憶の中の卒園式を重ねます。
この後、小学校に入って卒業して、中学校に入って卒業して、高校、大学と進むのかも知れません。
まだまだ長い人生の中で、スタートとゴールを繰り返していくのですが、その最初のゴールにたどり着けた息子に、やはりこみ上げるものがありましたが、隣で嘔吐(えづ)くようにして涙を堪えるカミさんを見て、逆に冷静になれました(^^;。
卒園式、と書かれた大きな文字の横に立つ息子の姿を見て、スマホを向けてシャッターを切りますが、なんだか、いつもより心なしか大きく見えます。
この前まで、息子の全てが、全部私とカミさんのモノだと思っていましたが、いつの間にか、自分の意思で立って歩いて走って、それを追いかけるようになってしまいました。
この前まで、私が抱きかかえて、また手を引いて、私が先に歩いていたのに…。
寂しくもあり、頼もしくもあり。
息子の人生は私たち夫婦のモノだったのに、日に日に、息子の人生は息子のモノなのだ、と言う、一種悔しくも感じるような感情に襲われます。
息子もいつか、私やカミさんがそうだったように、親の庇護下から自分の意思で飛び出すときが来るのでしょうが、今はまだ、もう少し私の中で温めていたいなぁ…でもそれはいつまでなんだろ…と。
今の私の生活の中で、息子がいない風景というのが、考えられません。
そんな息子をくれたカミさんには、どう感謝を伝えたら良いのか分かりませんし、カミさんに合わせてくれた縁を、どう報恩して良いのかも見当が付きません。
ただ闇雲に漠然とした幸せに頭を下げるばかりです。
私は今、年老いた両親と同居しています。
その辺ことはカミさんにも大変苦労を掛けていると思いますが、その両親を見ていると、私が幼い頃の、あの無償の愛で庇護してくれた日々が、ふわっと思い起こされるときがあります。
あの、無償の愛というの物が、私にも備わっているはずなのですが、それが息子に対して実践出来ているかどうか、不安にもあります。
逆に、あの頃の両親の、頼ってもびくともしない逞しさを覚えている身としては、今の両親のか細さと、歳を得て体裁が剥がれて地金が見える醜さと、そして以て掛け替えのない頼りがいに、内心穏やかではない気持ちもあります。
これを総じて世代交代というのでしょうが、この複雑な気持ちを、いつか息子も味わうのでしょうか。
そうであって欲しいし、欲しくもない、そんな奇妙な気分の、一日でした。